近江草津宿と鈎の陣跡 を訪ねる(第718回例会)

●日時
令和5年8月6日 午前10時30分 雨天決行(行程変更あり)

●集合場所
JR草津駅東口ふれあい広場

弁当(草津宿街道交流館にはレストランはありません)・飲物・帽子・ハイキング靴・タオル・雨具持参でお願いします。
マスクの着用は各自の判断でお願いいたします。

●行程
旧草津川堤防 → 道標 → 草津宿老舗 → (商店街散策) →

草津宿街道交流館にて昼食休憩(12:30~13:30) → 草津宿本陣見学 →

草津駅東口(帝産湖南バス 14:55) → 上鈎(15:00) →

永正寺(伝「鈎の陣」跡) → 鈎の陣所ゆかりの地の石碑 →

東海道を歩き旅人体験 → 手原駅(解散 16時頃)

●参加費
賛助会員・正会員・家族会員 800円
通信会員・当日参加者 1000円
(資料代・保険代・記念写真代・下見費用として)

●見どころ
江戸より52番目の宿場草津本陣でタイムスリップして大名気分で見学しませんか。
玄関を入ると、明治天皇が行幸した際に改修された襖は柏の葉を鳳凰風に描き 、
色鮮やかに迎えてくれます。
大福帳では忠臣蔵の主人公浅野内匠頭、吉良上野介、皇女和宮、
新選組土方歳三等が宿泊しています。
大名御殿にも劣らない豪華な上段の間や貴重な資料を堪能していただいた後、
九代将軍足利義尚が六角征討のため行った近江親征「鈎の陣」の故地を訪ねた後、
東海道を手原駅まで歩きます。

「鈎の陣」はこれまで対六角戦の前線司令本部という見方が支配的で、
義尚は在陣中酒色に溺れ25歳で病没したとの悪評を受けてきましたが、
滋賀県文化財保護課の井上優氏は、義尚は父の八代将軍義政から
名実ともに独立した権力基盤をつくるため、
1年5カ月に及び京を離れ進駐したとのことで、
鈎の陣における政府機能は『鈎幕府』と呼ぶことが出来るとしています。

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近江草津宿と鈎の陣跡 を訪ねる(第718回例会)

大和郡山城を訪ねる(第717回例会)

●日時
令和5年7月2日 午後0時30分

●集合場所
近鉄橿原線九条駅改札口前
参加される方は昼食を済ませてご参加下さい。

飲物・帽子・ハイキング靴・タオル・雨具持参でお願いします。
マスクの着用は各自の判断でお願いいたします。

●行程
九条駅 → 九条何和口(外堀と土塁) → 奈良口 → 広島堀 →

鍛冶町大門跡 → 桜門跡 → 鉄門跡 → 梅林門 → 法印曲輪 →

毘沙門曲輪 → 極楽橋 → 本丸 → 松陰門跡 → 麒麟曲輪 →

南門跡 → 永慶寺 → 近鉄郡山駅(16時頃解散)

●参加費
賛助会員・正会員・家族会員 800円
通信会員・当日参加者 1000円
(資料代・保険代・記念写真代・下見費用として)

●見どころ
大和郡山城は、続日本100名城の一つに数えられている近世城郭です。
今回の見学会では増田長盛によって完成された惣構え(外堀と大門跡)と
復元なった本丸極楽橋と白沢門跡(整備)が見どころポイントです。

大和郡山城は、天正8年(1580)に筒井順慶が織田信長より大和一国
20 万石を与えられ、砦規模の城を本格的な城郭へと修築を開始した。
城の修築半ばで2代定次は伊賀上野城へ移封となる。
天正13年(1585)に豊臣秀長が、大和・紀伊・和泉100万石の
太守として入城すると、城の修築は本格化する。
豊臣秀長の死後、養子秀保が嗣ぐが文禄4年(1595)17歳で死去し、
大和大納言家は断絶する。
文禄4年、増田長盛が近江水口から郡山20万石を領して入封する。
長盛は大和大納言家時代に内郭部分が完成していた城の修築を続け、
翌5年に外堀(総堀)を普請して城は完成した。

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大和郡山城を訪ねる(第717回例会)

山城一乗寺山城・雲母坂城を訪ねる(第716回例会)

●日時
令和5年6月4日 午前10時

●集合場所
叡山電鉄「修学院」駅前 時刻厳守

弁当・飲物・敷物・帽子・ハイキング靴・杖・タオル・雨具持参でお願いします。
マスクの着用は各自の判断でお願いいたします。

●行程
修学院駅 → 鷺森神社 → 曼殊院山門 → 登山口 →

(一乗寺林道) → (64) → (61)北白川城北城出丸 →

(64) → (66) → 一乗寺山城 → (69) →

(雲母坂) → 雲母坂城 → 修学院駅(16時半頃解散)

番号は京都一周トレイルの標識番号です。
64からいったん南に行き、北白川城北城出丸を見学、
昼食後北に戻り一乗寺山城に向かいます。

●参加費
賛助会員・正会員・家族会員 800円
通信会員・当日参加者 1000円
(資料代・保険代・記念写真代・下見費用として)

●見どころ
京都市の東、比叡山系の山々に点在する城跡の内、
南端の瓜生山を中心に城跡が点在する北白川城の北城出丸と、
その北に位置し比叡山系から伸びる西尾根に展開する一乗寺山城、
修学院離宮へと下る雲母坂にある雲母坂城を訪ねる。

北白川城は16世紀以降足利将軍家・細川管領家・三好長慶などの
京都をめぐる攻防の舞台となっているが、元亀元年(1570)
一乗寺山城に陣取った朝倉・浅井勢に対峙するため
9月に幕府奉公衆が陣取り、明智光秀も入ったという。
北城出丸は本城の北東に位置し、北東・南西に約150m、
北西・南東に約200mの規模で、中心部の郭には土塁、竪土塁がある。

一乗寺山城は元亀争乱の際、元亀元年頃朝倉・浅井連合軍が
京から近江に通ずる白鳥越(青山越)に築いた
陣城群の一部と考えられている。
城は京と近江を結ぶ白鳥越道で南北に分れている。
北城の北に二重堀切がある。
また、南北両城とも西側に土塁や畝状竪堀群を施し、
京都方向の防御を意識した構造。

雲母坂城は京と比叡山の最短ルートとして
利用されてきた「雲母坂」にある。
信長の比叡山焼き討ちの際の経路とも想定される。
雲母坂の山道の深い切通しに面して郭や土塁があり、
通路に圧力をかける構造となっている。

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山城一乗寺山城・雲母坂城を訪ねる(第716回例会)

美濃玉城を訪ねる(第715回例会)

●日時
令和5年5月14日 午前8時(時間厳守) 雨天決行(行程変更あり)
予定通り開催いたします。

●集合場所
JR環状線「森ノ宮」駅前 森之宮神社前

弁当・飲物・敷物・帽子・ハイキング靴・ステッキ・タオル・雨具持参でお願いします。
バス車内では必ずマスクの着用を、それ以外の場所では各自の判断でお願いいたします。

●行程
森之宮神社前8時出発 → 阪神高速 → 第二京阪 →

京滋バイパス → 名神高速 → 菩提寺PA又は伊吹PA(休憩) →

関ヶ原IC → 玉城 → 岐阜関ヶ原古戦場記念館 → 関ヶ原IC →

名神高速 → 菩提寺PA(休憩) → 京滋バイパス →

第二京阪 → 阪神高速 → 森之宮神社前(17時30分頃解散予定)

※雨天時は西高木陣屋・関ヶ原古戦場記念館となります。

●参加費
参加人数により変わります。
(バス代・高速料金・資料代・保険代・記念写真代・下見費用として)

●参加申込
会員の方は城だよりをご参照ください。
会員外の方はお問い合わせください。

●見どころ
『 美濃古城史』では「大系図ニ云フ佐竹常陸介義春及
其子義恕之ニ居リシト云フ」とある。
義春は佐竹貞義(1287~1352)の子小瀬義春のことか。
『岩手明泉寺記録』には「玉城 浜六兵衛 弘
治年中(1555~1558)より岩手竹中家臣杉山内蔵介」とあるが、
浜六兵衛は全く不明で、杉山内蔵介も詳細は不明である。
慶長5年(1600)「関ケ原合戦」の時西軍が豊臣秀頼、
毛利輝元を迎えるために改修されたともいうが、
来ず使用されなかったとも言う。

長さ150mの主郭西下の帯曲輪、二段下がった帯曲輪は
五本の竪堀が左右の移動を妨げるように設けられている。
西端には尾根を断ち切り、大きな堀切が築かれ竪堀に連続し、
西からの侵入を阻止する構造となっていて一番の見どころと言える。
低い土塁が確認できる曲輪は広く、兵站地と見えて、
関ケ原の戦い時に豊臣秀頼・毛利輝元を迎えたかったのかと
推測される広さで、関ケ原の合戦 のための陣城ではなかったのかと
思わせる城跡として興味が尽きない。
関ケ原の合戦に参戦した各大名の想いが浮かぶ。

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美濃玉城を訪ねる(第715回例会)

伊勢鹿伏兎城を訪ねる(第714回例会)

●日時
令和5年4月2日 午前11時
予定通り開催いたします。
雨天時は行き先変更の可能性もありますので、あらかじめご了承ください。

●集合場所
JR関西本線「加太駅」時刻厳守

弁当・飲物・敷物・軍手・ハイキング靴・杖・タオル・雨具持参でお願いします。
マスクの着用は各自の判断でお願いいたします。

●行程
JR加太駅 → 神福寺 → 鹿伏兎氏居館跡 → 西コースで登城 →

主郭(昼食) → 城内探索 → 西コースで下山 → JR加太駅(解散)

●参加費
賛助会員・正会員・家族会員 800円
通信会員・当日参加者 1000円
(資料代・保険代・記念写真代・下見費用として)

●見どころ
加太は伊勢国と伊賀国の境近くの加太盆地に位置し、
伊勢の「関」から伊賀の「柘植」に向かう大和と東国を
結ぶ幹線道路沿いにあり、江戸時代にはその宿場にもなっていた。

鹿伏兎城は加太盆地の北の標高約263mの牛谷山に立地する。
鹿伏兎城の城主鹿伏兎氏は亀山に本拠を置く関氏の一族で、
正平年間(1346~70) 関盛政の子、盛宗が分家し牛谷山に
築城したのが始まりで、6代目の定好が修築し鹿伏兎城と改称、
7代目の定長が天文11年(1542)12代将軍足利義晴に
白鷹を献上したことから白鷹城ともいわれる。

鹿伏兎城は牛谷山山頂に北西から南東方向に約120m
幅約50mの範囲に縄張された小規模な城郭。
城の北西の虎口は外枡形でその南直下にある高さ約2.3m
長さ約17mの石垣、削り出し土塁で囲まれた主郭、
南東虎口先の東側曲輪群の先端にある石組の井戸、
急峻な切岸等、中世の城郭の姿をよく残している。

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